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2024-11-17

「のへの ができるまで 〜生命を削ってつくる本〜」トーク

11月16日(土)の14時から16時まで、八戸ブックセンターさんで「のへの」のお話をさせていただきました。
イベントのタイトルは「のへの ができるまで 〜生命を削ってつくる本〜」
聞き役には、コロカルで「のへの」の記事を書いてくださったライターの吉田真緒さんに務めていただきました。


今回の内容を、自分の振り返りを兼ねて、要点を軸に文字にしてみました。
トークではわかりにくかった部分もあると思うので、少しは理解に役立てていただければ幸いです。

  ※  ※  ※

「のへの」は、2018年に始めました。
前年は通院での上京が多くて、通院の際には萩原修さんとソーシャルデザインについて調べたりして会う機会も多く、私も自分の地域で何かやらないかと提案いただきました。
2018年2月頃、「なんぶ」と「のへ」を文字ったネーミングを送ってくださり、そのなかにあった「のへの」がキラリと光って見えたので、ロゴをデザイン。
当時仲間と一緒に年一で開催していた6月の「さんかく座」のイベントに合わせて、1号目を勢い作りました。
ですが、「のへの」は本を出版していますが、本を作ることを目的としていません。
本の制作や出版を通して出逢った「戸(のへ)」エリア方々や興味を持った方々をつなぐこと、地域を知ることで、地域を耕し文化を耕す一助となりたいと思っています。
(文化:culture、耕す:cultivate、ふたつの言葉のルーツは同じ、この本で知りました)

そもそも、僕はデザインを学んできましたが、「デザイン」を、
 芸術的な思考や表現で、社会やくらしを良くすること
と理解しています。
そもそもデザインの歴史を遡ると、モダンデザインの父と言われるイギリスのデザイナー、ウィリアム・モリスは社会改良家、ソーシャルデザイナーで、マルクス主義者でもありました。
社会改良家としてのモリスは、分業化された労働には創造性がないことに怒り、創造的労働を求めました。
僕は、Uターンしてデザイン史の非常勤講師を10年くらい勤めたり、萩原修さんとソーシャルデザインについて調べる機会があったりして、デザインの社会性を強く意識するようになりました。
ちなみに、デザインには社会貢献的な側面と商業的な側面の両輪があり、どちらか片方ということはなく、比重の違いで両方が必要です。
モリスの後、ドイツのバウハウスでモダンデザインは確立します。
都市部に人口が集まるなか、機械制作での良質なデザインを、出来るだけ安価に提供しました。
第二次世界大戦後の戦後の復興機は、バウハウスのデザイナーの多くがアメリカに渡ったこと、北欧のデザインも充実してきたこともあり、厳格だったバウハウスのデザインに色彩の豊かさとオーガニックな曲線が加わり、より親しみやすいデザインとして人々の生活を支えます。
イームズやジャパニーズ・モダンように、この時代には良いデザインがたくさん生まれました。
しかしながら、アメリカを中心に商業的なデザインは広まり、モダンデザインを圧倒していきます。
ほかに20世紀で忘れてはならないのは、都市化が進んだことで、地方にいた若者は都市部に集まります。
仕事は、もともとは自分がくらす街にあり、生活の場と働く場が近いものでしたが、分離して都市部に通勤していくようになります。
それにより、地域コミュニティの崩壊も進んでいきます。
バブルが弾けた1990年代は「失われた○十年」のはじまりですが、でも、人々のなかでは自分たちの足元のくらしを見直す動きが静かに進んでいました。
2000年頃、イギリスではタイラー・ブリュレが雑誌「wallpaper」を立ち上げ、それまで専門分野だったデザインはライフスタイル誌で扱われるようになり、デザインの民主化が始まります。
日本では「Casa BRUTUS」や「Pen」が立ち上がり、「BRUTUS」などでデザインが一般の人々に伝えられ、デザインブームが起きます。

そんななか、2000年ゼロ年代後半には社会起業家が生まれ、ソーシャルデザインということばも生まれてきます。
社会課題が様々に出てきており、「デザイン思考」も広まり始めました。
雑誌「自給自足」が「TURNS」にリニューアルしたり、「ソトコト」がソーシャルを掲げ指出さんにバトンタッチしたり、地方にも注目され始めて「Discover Japan」が立ち上がったのもこの頃です。
この流れは2010年代に地方に広まります。
国は地方創生を掲げ、八戸では「はっち」を皮切りに色々と活性化の施設が出来はじめました。
今ではデザインにもソーシャルな視点が重要視されていますが、歴史をたどると、そもそもデザインにはソーシャルな視点があったことに気付かされます。
地方の農村から都市への人の移動は、近年では逆に、都市から農村へという流れも生まれ、地域をおもしろくしています。
それで私が強く影響を受けているのが、日本総研の井上岳一さんの著書「日本列島回復論」の出版をきっかけに、2020年春からGOOD DESIGN MARUNOUCHIの企画で行われている、井上さんとデザインジャーナリストの藤崎圭一郎さんがディレクターを務める「山水郷チャンネル」です。
この企画では、海に囲まれ、山が連なる自然豊かな日本列島、山水の恵み豊かな地域「山水郷」に根を張って生きるデザイナーやクリエイター達の物語(ナラティブ)を紹介するもの。
地域にクリエイターが入っていって自らがプレイヤーにもなり、何でもやる、場をつくっていて、そこに新たなコミュニティも発生し、地域をおもしろくしている事例が数多く紹介されています。

話を戻します。
僕は、これらのことに影響を受け、自分もそうありたいと思っています。
ですが、私の身体には色々病気があり、これまでに28回も入院し、これからも入院は続くでしょう。
これまでも仕事に苦労してきて、これからもそれは続くと思います。
そうすると、出来ることに制約が生まれます。
ですから、自分の能力(自分が良いと思ったもの、ことを、自分のことばと写真で伝え、デザインもする)、時間、金で表現したのが本なんです。
生きている間に、できる範囲で地域を耕し、人のつながりを活性化する一助となりたい、それしか出来ないと思っています。

「のへの」のエリアは、北は青森県野辺地町と三沢市から南の青森県東南部と、岩手県八幡平市から普代村までの岩手県北部、旧南部藩領だった秋田県小坂町と鹿角市の地域にしました。
少し広かった、しくじったと、あとで気付きました。
でも、こうやって少し広いエリアで活動すると良いこともあります。
同じ街のつながりだけだと息苦しいですし、隣町に行けばよそ者になれる気楽さが得られます。
活動エリアが異なると、利害関係も生じにくいです。
また、よその街に知り合いがいると、 その街をあらたな感覚で楽しめます。

「のへの」エリアは、旧南部領の「戸(のへ)」のエリアを中心にしていますが、昔の藩政時代の区分は理にかなっていて、市町村、県、郡、圏域、地方のような区分以外にも、県をまたいだ藩政時代のつながりなど、いろいろあって良いと思います。
そうやって少し広いエリアで応援し合える仲間がたくさんできる。
それをいろんな人が行えば、エリア全体が活性化されて魅力的なエリアになっていくのではないでしょうか。
人との出逢いは多い方が良い。
人との出逢いが人生を変えることもある。
どこで、誰からの紹介で出逢うかなどでも人との出逢いが違ってくることもある。
3号まで作り終えた今、あらためて地域をリサーチしたいと思い始めました。
「地域学をはじめよう/山下裕介/岩波ジュニア新書」に刺激を受けました。
地域には、山・川など固有の自然風土があり、土地で取れる・作られる産物があり、そこでは人が集まりコミュニティもあります。
それをもう一度調べ、その土地の本来的な産業、地の利を考え、地域に生業、コミュニティを取り戻す一助となりたいのです。

3号の取材までは、パーキンソン病の症状が今より小さかった時なので、今の状態でどのくらい動けるかわかりません。
ですから、仲間とチームでやってみたい願望はありますが、人を巻き込むと賃金の問題も生じ、どうクリアしたら良いか今はわかりません。
また、もっとペースを早め、webメディアとして発信し、まとまったら出版というかたちにもしてみたいですが、できるかどうか。
写真家のMOTOKOさんが、「写真でまちを元気に!」をスローガンに、地域の人々がその土地の暮らしや文化を写真に撮ってSNS等で発信し、観光や移住につなげる住民主導の活動の「ローカルフォト」の要素を取り入れ、人に焦点を当てた記事も作ってみたかったりします。
いろいろ書きましたが、今の今は自分の身体が不安だらけなので、もう少し様子を見つつ、できることを整理してみたいと思っています。

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